嘘の色

親と子のあいだの私(体験雑記)


訪問介護のサ責時代。
息子や娘に優しい嘘をつく高齢者を沢山見た。
できてるよ、足りてるよ、だいじょうぶだよ、っていう風に。

この嘘は悪い嘘だろうか?この嘘は何色なのだろう?

娘が初めて嘘をついたのは、幼稚園の時。
お弁当が最後まで食べきれなくて、先生に「お腹いっぱい」って言ったんだって。

娘は大の偏食で、それでも良くなればと思って、お弁当に少しだけ野菜を入れるようにしていた。

ブロッコリーが苦手、って正直に言うと「一口頑張ってみようよ」って食い下がられるけど、お腹いっぱいって言えば、先生は追及してこない。

この嘘は悪い嘘だろうか?
今も時々思い出しては考えてしまう。

娘にとってはどうにもこうにも耐えがたいハードルだったんだよね。ブロッコリーを食べるというのは。それを母親の私はわかってて。
でも社会性でカバーできるかな?幼稚園なら食べるかな?っていう期待もあって、片隅にそっと入れた。

いや、正直に白状すると、全く野菜入ってないお弁当を持たせるなんて体裁が悪かっただけかもしれない。真っ茶色のお弁当なんて、ちゃんとした母親じゃないみたいじゃない?

先生も娘を追い詰めたかったわけじゃない。

苦手なものも一口食べたらってすすめるのはもはや先生という役割に課せられたマニュアルみたいなものなんだから。苦手ならしょうがないよねえ、って笑って見過ごしてくれる先生を少なくとも私はこれまで見たことがない。

母親という役割、先生という役割との狭間で、娘は自分を守るために嘘をつくっていう選択を取るしかなかったんだろう。

きっと心は痛かっただろうな。


病気の父にストレッチの本を渡したときは、今度は嘘をつかせたくないなと思った。
だから、その後やってる?とひと言も聞かないと決めていた。

でも律儀な父は電話のたびに、本を読んでるよ、身体動かしてるよ、って話してくれて。
私はそれを聞くたび、ごめんね、ごめんね、ってずっと思っていた。

元気で長生きしてほしいと思う娘のエゴに付き合わせて、
おまけに嘘までつかせているかもしれない、っていう罪悪感が痛かった。

40年以上人間をやっていても、それがいい嘘なのか悪い嘘なのか、結局判別がつかない。
ただ、嘘自体の色は、もともと無色透明なものなのだろうな、と思う。

そこに「罪悪感」の色を塗って見ているのは、他ならぬ私自身。

娘がついたブロッコリーの嘘も、父がついたかもしれないストレッチの嘘も。

その透明な膜を透かして見れば、そこには「相手を悲しませたくない」という、あまりにも不器用で、まっすぐな想いが透けて見えてくる。

嘘をつかせた自分を責めるより、その嘘という名の「ギフト」を、そのまま受け取ってもいいのかもしれない。

次に電話したら、父の「やってるよ」という言葉を、もう「ごめんね」で返すのはやめよう。

「よかった、ありがとう」と笑って受け取ること。
それが、父が差し出してくれた優しさへの、私なりの正解なのかもしれない。

母親は子どもに「嘘をついたらいけません」って教える役割かもしれないけれど、
たまには役割をおやすみして1人の人間として娘と話したっていいよね。

次に誰かが私に優しい嘘をついたとき。
私はその透明な嘘にある「大好きだよ」を、見つけられたらいいなと思う。

この記事を書いた人

社会福祉士資格を保有。

高齢者分野の相談員として勤務しながら
制度や支援の現場に関わっています。

家族の病気体験を中心に、
当事者としての経験と、支援職としての視点の両方から
わかりやすく情報をお届けします。

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