延命治療と聞いて、あなたは何を想像しますか?
ドラマのワンシーン。「治療方法がもうこれ以上ありません」と告げられた患者さんが「延命を望まない、静かに見送ってくれ」と言う。こんな場面に既視感がある方もいるかもしれません。
そんなふうに、治療の手を離れて穏やかに亡くなるというのが「延命治療はしない」と言う選択で、逆に最後の最後まで治療の選択肢を探っていくのが「延命していきたい人」の選択肢。そんな風に、ぼんやりと認識されている方もいるかもしれません。
ご両親と老後のあり方について話した時、「延命治療は望まない」と彼らは言うかもしれません。でも延命治療への正しい理解や考え方以前に、「治療にお金をかけて子供に迷惑をかけたくない」とか、「なんとなく延命はしないって言うのが正解だろう」と感じている方も少なくないのではないでしょうか。
しかし、高齢者介護における延命は、そんなにドラマティックで、スパンと割り切れるものばかりでもありません。
そして多くの方は、実際に親御さんや自分が直面してから初めて向き合ったり、勉強したりする分野の1つなのではないでしょうか。
高齢者にとっての延命治療とは何でしょう。
それはまず、老化して死んでいくまでのプロセスをざっくり理解しないと語れません。
高齢になっていくなかで、多くの方が病気をする。病気をしなくても、年齢に伴いだんだん老衰していく。衰弱によって自分で歩けなくなり、起き上がれなくなり、食事が取れなくなり、水分が取れなくなって、そして亡くなります。
それは、「命の終わりの自然のかたち」なのだと思います。
わかってはいても、延命しないと決めていても。
ある日突然、元気だった親が、小さなきっかけで口からものが食べられなくなって、どんどん衰弱していく姿に直面したらどうでしょう?
「胃ろうを造設してほしい」とか「CVポート(中心静脈栄養)で何とかならないか」とか、「点滴で栄養と水分くらい入れてあげたい」何かしてあげないとたまらない、という気持ちになるのは、至極人間的です。
しかしその時にとる選択肢、それも延命治療の1つです。
そして、その先にどんな未来が待っているのかを正しく理解した上で選択したほうがいいと思うのです。
その現実は、決してきれいなものばかりではありません。
例えば、施設にはこんな人がいます。
一日のほとんどを寝たきりで過ごし、ご自身で動くことも、言葉を発することも難しくなった方。すでに食事は取れず、点滴や胃ろうで「栄養」は送り込まれています。
その方にとっての「日常」は、一日に何度もやってくる「痰の吸引」です。
吸引の管が近づくと、その方は泣きながら、むせながら、渾身の力を振り絞って手を口元へ持っていき、拒絶しようとします。全身で、「嫌だ」と叫んでいるように見えます。
看護師は「ごめんね、ごめんね……」と謝りながら、その手を押さえて処置を続けます。痰を吸引しなければ、窒息してしまうからです。
「食べられないから栄養を入れる」という選択をしたその先に、こうした時間が10年続くかもしれない。
良かれと思って始めた点滴が、弱った心臓や腎臓に負担をかけ、体をむくませ、肺に水が溜まって、かえって本人を溺れるような苦しさに追い込んでしまうこともある。
命をつなぐための行為が、結果として本人の尊厳ある人生の時間を削り、苦痛の時間を引き延ばしてはいないか。
「こんなはずじゃなかった」後になってそう漏らすご家族の姿に、私も相談員として何度も直面してきました。
でも、一度「やります」と始めた延命処置を、「やめる」=数日から数週間後には亡くなる、という決断は、今の日本の医療・介護の現場では、始める時よりも何倍も困難で、重いものなのです。
一方で、こんな事例もあります。
誤嚥性肺炎を繰り返すリスクの高い方がいました。(肺炎は命のリスクに直結しています。)
胃ろうを造設しましたが、自分で口から食べたい強い意志があって、
胃ろうに補助してもらいながら口からの食事も続けていました。
施設でもご本人とご家族と慎重に話し合い、「リスクを理解した上で、ご本人の意思を尊重するための同意書」を交わす必要がありましたが、実際に受け入れて対応していたケースです。
その方にとっての胃ろうは、自分らしく生きるための選択肢でした。
痰の吸引自体も、延命的側面もありますが、窒息による苦痛を和らげるための「緩和ケア」的な側面もあります。
その医療行為にはさまざまな側面があり、行為自体の是非を問うつもりではありません。
まとめ
私が伝えたい願いは、1つです。
まだ元気なうちに、あるいは直面する前に、「何が正解か」ではなく「その処置のあとに何が起きるのか」ということを理解し、延命治療に対するリテラシーを持って欲しい。
そう願い記事を書きました。
死を遠ざけることだけが、愛ではありません。
枯れていく体に合わせて、自然に、穏やかに幕を閉じる。そのプロセスを邪魔しないという選択。
「やりません」と決めることもまた、一つの深い覚悟と愛の形なのではないかと、現場の端っこで私は思っています。
10年後。
その人が望んだ「自然な最期」を穏やかに見守れるような、
そんな社会になっていることを願って。


